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私にとってのレスリーとは、壁を壊す人だ。
流れに身を任せる人の多い世の中で常識や世間体という
枠に捕らわれず、逃げず、打開し、自身で流れを変える人。

 

履歴

紡績業を営む裕福な家庭に、10番目の末っ子として誕生。 両親とは縁が薄く、共に暮らしたことも無く、幼少の頃は 祖母の家で乳母に育てられた。両親との間には様々な 葛藤があったようだが、のちに理解するようになった模様。 中学卒業後、イギリスへ留学するが、父の病気で中途帰国。

77年、歌謡コンテストで準優勝になり、芸能界へ。 78年「紅樓春上春」(三級片、いわゆるポルノ)で映画デビューもするが しばらくは泣かず飛ばず、辛い時期が続く。84年、吉川晃司の 「モニカ」のカバー曲で大ヒット。86年、呉宇森(ジョン・ウー) 監督、周潤發(チョウ・ユンファ)主演の「男達の挽歌」や 「チャイニーズ・ゴースト・ストーリー」シリーズなどに出演し トップアイドルの座を不動の物に。

そんな折り、89年、突然の歌手引退宣言。契約の残りがあり 呉宇森監督「狼たちの絆」と王家衛監督「欲望の翼」を 撮り終えた時点で、カナダに完全移住、芸能界引退。 「賞争いにうんざりした」というのが、当時の理由の一端だが 中国返還を目前に控え、共産党への恐れ、逃亡の気持ちもあったとか…。 (彼の祖父は、文化大革命の際中国から逃げてきた経緯がある。)

しかし、「欲望の翼」で香港電影金像奨、主演男優賞を受賞したこともあり 1年足らずで帰国。93年、カンヌ映画祭で、パルム・ドールを受賞した作品 「さらば、わが愛−覇王別姫」にて京劇の女形を演じ、世界的にも評価される。 その後も、数々の映画に出演するが、覇王別姫で男性を愛する役柄を演じた ことで、アイドルとしてのイメージ、自身の壁を突き抜けたのか、タブー視 されている同性愛的な表現や、テーマの映画にも積極的に参加。 レスリーといえば、両性的イメージというのが定着。

同映画や、音楽監督&主演を務めた「夜半歌聲」などの映画の中でしか レスリーの歌声は聴けなかったが、95年に復帰アルバム「寵愛」をリリース。 歌手としても完全復帰。ゲイを扱った王家衛監督作、「ブエノスアイレス」を 撮り終えた後、復帰後の2thアルバム「紅」では、主題曲の「紅」と「愉情」の MTVで男女の合間で揺れる男を見せる。香港コロシアムでの年越し24回連続の 演唱会では、ブエノスを撮り終えたばかりというのもあってか、赤い ハイヒールで男性ダンサーとタンゴを踊る演出を加え話題に。日本での来日 公演も含めたワールドツアーを展開。劉徳華(アンディーラウ)との共演 「上海グランド」、常盤貴子との共演の「月へ星たちへ」はじめ多くの映画や コンサートに出演。

2000年8月。待たれた香港コロシアムでの演唱会、21日連続公演を好評の内に終え、ワールドツアーへ。 毎回違う事で驚かせてくれるレスリー。今回はゴルチェの衣装に長髪が話題になりましたが、幕開け当時の記事ではキルトスカートが女装だの、長髪が貞子だの面白可笑しく書き散らされたのは記憶に新しい(ムッ)  すっかり定着したイメージ払拭をしたかったのか、今回は前回レスリーが穿いていたものと同じ種の赤いハイヒールを穿いた女性ダンサーとの絡みとダンスが印象的なステージに。幕開けの天使の白からラストの黒に赤の魔王までしっかり構成付けられていて、面白いステージでした。 (特に後半のダンスパーティーは盛り上がりましたね〜。)日本では、2000年12月に 6回、1月のリターンで4回来日公演をこなす。(東京、神奈川、埼玉、大坂、名古屋 、福岡。付いてまわる迷は大変。でも全制覇組も多し。^^;)好評だったことから、2001年4月 香港紅館で締めの演唱会開催。前後して、NEW ALBUM「FOREVER」リリース。 新曲「夢到内河」のMTVにGUESTした日本のバレエダンサー、西島千博氏を コンサートでも呼び、迷を大いに湧かせた。

…… 2003年4月1日 あまりにも早すぎる突然の死。享年46歳 ……


05/5/10 -追記-

 

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